飼育しているふくろうが卵を産んだ。
祈ることしかできない時に
鳥は、卵が詰まると命を落とすことがある。
鳥は軽く見られる事が多くて、愛鳥を卵詰まりで亡くした人じゃないと「卵を持つ」ことの重大さがなかなか伝わらない。
身体への負担は人間と同じ。
コレステロール値が高くなり循環器に負荷がかかる。産卵を繰り返すと骨に異常をきたす事がある。
産む前から身体は変化し、自分自身を犠牲にしながら次の世代へ命を繋ごうとする。
「何曜日までに産めなければ獣医に行く」
そう説明しても、
「どうなったら詰まるの?」
「詰まったらどうなるの?」
「大丈夫なの?」
「何か対策ができたりするの?」
知的好奇心から次々と問いかけられる。
心配してくれてるのは分かっている。
心を寄せてくれてるのは分かっている。
けれど矢継ぎ早に繰り返されるその問いは、
私に「最も怖い未来」を何度も何度も喚起させ、語らせるものだった。

その優しさは誰のため
そこで気づいた。
寄り添うようでいて、
相手の不安を和らげるのではなく、
その人自身の不安を解消するための言葉もあるのだ、と。
本当の優しさとは、
問いを投げることではなく、
ただ「無事であれ」と一緒に祈ることなのかもしれない。
命を前にしたとき、
人にできることはあまりに少ない。
祈ることだけが、確かに残る。

祈りを現実に刻んでおきたくて
私がジュエリーをつくる根っこも、そこにある。
恐れを消すためではなく、
それでも「負けない」と願う心を留めるために。
不安を否定するのではなく、
不安ごと抱きしめる静かな祈りを、
現実に刻むために。
ジュエリーは、命を直接守ることはできない。
けれど、持ち主の心に宿る祈りを
そっと手元に留めておくことができる。
それは、
「現実」に立ち向かうためのささやかな武器であり、
負けない心を灯す、小さな証。
道半ばであっても、祈りは力になる。
その力を宿すかたちとして、
忘れないための確かな証として、
私はジュエリーを作っている。



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